旅 街 人 美

基本、自分日記です。

日本の歴史「開国」に続き「明治維新」

岩倉遣欧使節団の一員、大久保と参加しなかった西郷とのその後の確執。「征韓論」か「非征韓論」が直接的な両者の別離になるが、西郷が欧米視察をしていれば… なぜ、西郷は行かなかったのか?


革命のあとの新体制づくり。幕末から引き続く「内憂外患」。薩長を中心とした官僚たちは「天皇」を「権力のふりかざす公儀の論理の究極点に存在するものであり、その公儀の実体を一身に体現したものにし」国づくりを引っ張っていった。すなわちそれは官=公儀と至尊(天皇)=皇国を一直線につなげていくこと。このことから日清、日露戦争勝利、産業革命を経て「日本帝国主義天皇制の確立」へ至る。


薩長土肥からかけ落ちた土(高知)と肥(佐賀)が自由民権運動に連なるという指摘も面白い。


面白い下記ブログ転載してみます。
https://blog.goo.ne.jp/humon007/e/e7d05aa80052288d6de96cc89cbfa36b
佐藤優】西郷と大久保はなぜ決裂したのか 〜征韓論争〜

2017年12月28日 | ●佐藤優

 (1)さて、西郷・大久保の征韓論争。明治初期の政治は、一人が突出することなく、対立が生じた際には、他を味方につけ、多数派が主張を通すという構図だった。ところが征韓論だけが大きな例外となってしまった。もともと朝鮮の李王朝が明治政府との国交を認めず、排日の気運を高めていったのに対し、居留民保護のために派兵を主張したのは板垣退助だった。それに対し、西郷は自ら朝鮮に渡って交渉すると唱え、留守政府がこれを承認したところに、岩倉使節団が帰国。大久保、岩倉がこれに反対したのだ。【山内】
 西郷・板垣の外征論と大久保・岩倉の時期尚早論とが2対2でぶつかり、身動きがとれなくなったと。【佐藤】
 西郷と大久保は鹿児島の加治屋町で幼少時代から兄弟のように育った朋友で、ともに革命を成し遂げた最も信頼しあう同志だった。では、なぜここまで対立が深まったのか。それは
   ①「富国」
   ②「強兵」
の対立だった。岩倉使節団に参加して、イギリスのリバプールやシェフィールド、マンチェスターといった産業革命の地を見学した大久保は、富国強兵、殖産興業をその政治目標として掲げ、その感激を西郷に書き送っている。大久保もまた日本の軍事力を強める②に異存はなく、朝鮮外交に対しても、最初は武力派遣を支持していた。この時点では、西郷と大久保は問題意識を共有していたはずだ。【山内】
 問題は両者のバランスだ。国が富み、工業生産力を高めなければ軍隊の強化などできない。①が②に優先する。これが大久保の立場だ。【佐藤】
 新政府ができ、海外列強と対峙するという重要な節目にもかかわらず、それを支える財力がない。税制度も確立されていないので、税収も乏しい。憲法、議会、そして官僚制度の整備、どれをとっても膨大な予算が必要だ。とても外に攻めていける状況ではない、と大久保は判断した。それに対し、西郷は①と②は同時にできるし、また、しなくてはならないという考え。その背景となったのは、廃藩置県で職を失った大量の武士の失業と雇用の問題だ。さらには、不満を募らせた武装集団が暴動を起こしたら、どうやって収めるのか。実際に、西郷下野後、大きな士族の反乱があいついだ。西郷の答えは、その力を「外」に向けるしかない、という外征論だった。朝鮮半島や東アジアで、武士集団を使うことで、彼らの不満も抑え外交を補うことができる。理屈として双方に言い分があるのだが、結局は西郷が敗れ、下野を余儀なくされる。その理由は簡単で、やっぱり外征するだけの原資がなかったのだ。つまり、政府予算の取り合いのなかで、多大な費用を必要とする外征派に反対して、富国派に憲法派、議会派も賛同すると1対3の流れができていったのだ。【山内】
 この時期の日本経済を考えるときに、もうひとつ念頭におくべきは、当時の農業の生産性の低さだ。20世紀を迎える前後に化学肥料が実用化されるのだが、これによって農業の生産性は飛躍的に向上する。まだ明治初期は安定的かつ大量に農作物を供給できる態勢ではなかった。土地の私有化でさえ、地租改正によってようやく実現したばかりで、土地全般に関しての近代的な制度もできていなかった。【佐藤】
 それは社会経済史的に重要な論点だ。この時期、新政府が最も恐れたのは百姓一揆だった。江戸時代の米を納める物納制から、全国統一の金納制に切り替えたために、農家は米価の変動リスクをも背負わされた。そこで地租を低く設定したために、地主は富んだが、小作農の収入は低レベルに固定され、税収もまた乏しくなるという苦しい状況にあった。【山内】
 征韓論争は経済的にみると、いわば外征によるケインズ主義(失業対策)と財政重視論・重商主義の対立でもあったわけだ。 【佐藤】

 (2)大久保と対立した西郷は鹿児島に帰るが、失業した士族に担がれ、西南戦争への道を進んでいく。その様子をうかがえる貴重な資料を残したのが、やがてイギリス公使になる若き日のアーネスト・サトウだ。このサトウは文久2(1862)年に通訳生として日本にやってきて20年あまりを過ごした後、明治28(1895)年に公使として再来日し、英国外交史で最大の日本通になる。【山内】
 非常に優れた観察眼をもった外交官だ。【佐藤】
 サトウは本当に西郷が好きだったようで、幕末から明治維新にかけてしばしば訪ねてはいろいろな議論を交わす仲だった。それがまさに挙兵し、出陣する直前の西郷に会うために、鹿児島まで行く。ところが、そこでの西郷は、幕末に自由闊達に政治外交を論じた人物ではなかった。西郷がサトウの滞在先を訪ねてくると、取り巻きが5、6人ついてきて、離れようとしない。西郷と一緒にサトウの部屋に入ろうとするので、西郷が叱責しても玄関や階段の踊り場、甚だしきは部屋のすぐ近くに残って聞き耳をたてようとする。【山内】
 むろん西郷を警護しているのでしょうが、蜂起を決意した部下たちが西郷を自分のコントロール下に置こうとしていたのだ。【佐藤】
 そこまでして直に話してみると、西郷は別に大した話をするわけでもない。それでサトウは失望して、内乱が起こり帰京すると勝海舟を訪ねた。すると勝は、「大久保と黒田(清隆)を辞職させたら内乱は終わる」と答える。そして、今の政府は長州人と長州出身者の助けを借りている薩摩人から成っており、それが薩摩士族と戦っているのだ、と分析する。【山内】
 その遺産が靖国神社だ。靖国神社は幕末の志士たちに始まり、明治政府に貢献した死者を祀る、いわば長州がつくった神社だ。だから、西南戦争で賊軍となった西郷は、靖国には祀られていない。【佐藤】
 興味深いのは、西南戦争の翌年、大久保が紀尾井坂で暗殺されたとき、サトウが日記に「大久保は外国人の助言を求めたり、友情を深めたりするつもりはなかった」と淡々と記していることだ。これは、西郷との対比だろう。西郷とは友情を深めたが、大久保はそうではなかった、と暗に語っている。【山内】
 また西南戦争の翌々年に『薩摩反乱記』を出したオーガスタス・マウンジーというイギリス公使館の書記官も、新政府は西南戦争神風連の乱などで士族階級を抹殺しようとしている、その一方で、彼らから家禄を奪った新政府の官僚は高給をむさぼり贅沢三昧をしていると指摘している。マウンジーのように外国人にも、西郷の主張に共鳴する人がいたのだ。【山内】
 革命政府と腐敗の問題では、ソ連崩壊時、そのシナリオを書いたブルブリス国務長官から、「佐藤、いま世の中には三種類のエリートがいる」と言われたことがある。
   ①ソ連全体主義体制の古いエリート
   ②混乱期だから偶然出てきたエリート
   ③いまはまだ成熟していない未来のエリート
だと。①と②は狼で、③が羊。あまり狼がお腹をすかせると羊を食ってしまう。だから、羊が育つまで狼を腹いっぱいにしておかないといけない。古いエリートと混乱期のエリートをおとなしくさせておくために、一定の利権や腐敗も許し、コントロールするのが我々偶然のエリートの仕事だ、なぜならわれわれには未来をつくる能力がないのだから、と言うのだ。明治初期における高級取りの役人たちは、まさにこの偶然のエリートだったわけだ。【佐藤】
 「努力して達する」というのがフランス語のパルヴェニュ(成り上がり者)の語源なのだが、明治新政府の高官になった者には、先輩の引きや死によって苦労せずにパルヴェニュになった者も多い。【山内】

 (3)もうひとつ、サトウが証言している西郷の変質を理解する上で重要なのは病気の問題だ。当時、西郷はリンパ系フィラリア寄生虫の一種)で下半身が異常に腫れあがっていたという。耐えがたい痛みを抱えている人間は、どうしても判断が鈍ってくる。と同時に、行き場のない怒りに襲われる。だから過激な結論に飛びつきやすくなる。【佐藤】
 権力者の健康というのは、歴史と個人の関係を考える上で非常に重要なテーマだ。世界史で有名なのは、痛風と痔に苦しんでいた「太陽王ルイ14世。彼の痔瘻の進行にしたがって、いったん広がった領土がどんどん小さくなってしまうという歴史家のジュール・ミシュレの分析があるほどだ。西郷の場合、幕末からしばしば体調不良に悩まされたが、征韓論争当時は一日に数十回もトイレに通わなければならないほど深刻な下痢に見舞われていた。そのために重要な会談を欠席せざるを得ないほどだった。体調不良の原因はいろいろ推測されているが、その根本は尋常ならざるストレスだろう。慢性的な下痢といえば、大久保、木戸孝允もそうだった。要するに、明治初期のリーダーはみんななにがしか病気に罹っていたわけだ。【山内】
 ストレスと免疫力とは相関関係がある。強いストレスに晒され続けると、ふだん感染しない感染症に罹ったり、発症しないものが発症したりする。【佐藤】
 しかも歴史の皮肉というべきは、西郷が薩摩藩のリーダーとして浮上していくきっかけにも病気の問題が絡んでいる。というのは、薩摩の藩論を本当にリードしていたのは、家老の小松帯刀だった。彼は、藩主茂久の実父・島津久光をリーダーとして戴きながら、藩政改革、倒幕運動、さらには武器商人グラバーや英国公使ハリー・パークスとも交流するなど、八面六臂の活躍を見せるのだが、彼は長年「足痛」を患っていた。現在の痛風ではないかと推定されるが、ついに痛みで動けなくなる。慶応3(1868)年12月、京都で開かれた小御所会議に行かれなくなった。このとき小松の代理となったのが大久保利通だ。これが西郷や小松に伍して大久保が台頭する大きな契機となった。【山内】
 この小御所会議で、王政復古の大号令が発せられ、倒幕路線が確立する。【佐藤】
 実はこのとき、島津久光もリウマチか痛風によって身動きがとれず、小御所会議には出ていない。小松も久光も倒幕穏健派だったので、もし彼らが前に出ていたら武力倒幕でない形で進んだ可能性も否定できない。久光の不在により、倒幕急進派の西郷が前面に出るわけだ。その意味では、病気は、この維新の激変期に非常に大きな役割を果たしたといえる。【山内】
 さらにいうと、小松は明治3年、34歳という若さで早世してしまう。彼は旧幕藩体制でも家老というスーパーエリートでありながら、同時に革命家へと自己変革を遂げて、国と時代を変えた逸材だ。政治的リアリズムと革命的ロマン主義を兼備した事例は、世界史的にもあまり例がない。だから、旧体制との間の調整・交渉が可能な希有な人材でもあった。【山内】
 熟練した国対委員長であり、幹事長でもあったというわけだ。【佐藤】
 さらには、実質上、維新政府の最初の外務大臣の役割も果たしていた。堺事件や神戸事件、パークス襲撃事件といった最も難しい案件は、みな小松が処理しているから。ここから歴史のイフになるが、もし彼が維新後も健在だったら、政治力学は相当に変わっていただろう。維新後、西郷・大久保を大いに悩ませたのは、実はかつての主君、島津久光との関係だ。ことに廃藩置県を断行したことで、久光は二人に強い怒りを抱いていた。もし小松が生きていたら、絶好の緩衝材になった可能性は高い。さらにいえば、西郷と大久保の関係が、西南戦争という最悪の形で決裂することもなかったはずだ。【山内】
 歴史を見るには、マクロな鳥の目とミクロなアリの目が必要だとしばしば言われる。今日は、征韓論争という近代日本の分かれ目を、一方は新政府の経済というマクロ、他方は個人の病気という超ミクロな視点から論じたことになる。【山内】