旅 街 人 美

基本、自分日記です。

お別れの寂しさ

突然の悲報。
人生の先輩であり、仕事のよき仲間そして親父以上の年齢ながら僕を友人として扱ってくれた方が一昨日21日に亡くなった。ロシア関係のコーディネーターが現在の仕事だった。


その日は、最愛の仕事仲間たちを無理やりに呼び出して麻雀をしていたそうで、その最中に「気分が悪くなった」と最後の言葉を残してわずか2秒でこの世を去ったとか。独り暮らしだっただけに仲間に最後をみとられたのは幸いだった。その前日の20日、僕は朝、電話をもらって昼食をともにし、次なる仕事の話をしたばかり。
「人生80年過ごしているけど、今が楽しい」と笑顔で語って、来週には会う約束をしたのが忘れられない。


1996年、シャガール展の企画で約束していたあるコレクターの作品借用が駄目になり、ロシアからの借用を相談し、一緒にモスクワへ行ったのが、本格的なお付き合いの始まり。あの時ロシアで「あと2年で70になるから、これが最後の仕事」だと僕に語ったが、それ以来、元気に10数年、公私にわたり相談にのってくれ励ましてくれた人だった。


修猷館中学(旧制)を卒業後に、中野陸軍学校で特務機関の訓練を受け、第2次大戦中は大陸を駆け巡った。終戦直前にソ連の捕虜になり、シベリア抑留。得意のロシア語に磨きがかかったという。2年ほどして復員。早稲田大学卒業後は、旅行社に勤めていたもののジャーナリズムの世界に憧れ、東欧圏の来日者があるとメディアの通訳を務めた。


長崎での旅博では来日したゴルバチョフ大統領の通訳。さらにチェルノブイリのテレビ局ドキュメントやロシアからの美術展のコーディネートなどを手がけ、「ロシアに恩返ししてもらっている」といつも笑顔で語っていた。日本人らしからぬ個人のオリジナルな動きで縦横無尽に様々な会社や個人を繋げていく。近年は、大きなスポンサーを背景にロシア連邦の某共和国の都市開発にも関わりはじめていた。
サムライのように独りで立ち向かうが、人への優しさは少年のようでもあった。


告別式に集まった仲間たちは、彼の意志を継いで、ロシアとの架け橋を大きくしようと誓った。

涙がでてくる寂しさ、別れである。
亡くなった時刻頃に帰宅した際、家の電話が1回だけ鳴った。
僕に電話で知らせてくれたのだろうか。

ご冥福をお祈りします。

http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm070509.html